1.はじめに
東北大学 大学院情報科学研究科の旧猪岡研究室に在籍していたとき,救急車用のベットについて研究していました. ここでは,その研究背景と試作されたアクティブ制御ベッドについて説明します.
2.救急車の走行加速度
救急車で傷病者を搬送する際,傷病者は車両の走行状況に応じて様々な方向から加速度を受けます(一般に,加速度に体重を掛け合わすと力となるので,以後,加速度を力と読み替えてもいいでしょう).
この加速度は,上下方向(患者の背中から腹方向),前後方向(患者の足から頭方向),左右方向(患者の右手から左手方向)の3方向の成分に分解できます.
では,どの程度の加速度を受けるか,救急搬送時に計測した加速度の例を下に示します.
上下加速度(m/s2)
時間 (秒)
前後加速度(m/s2)
時間 (秒)
左右加速度(m/s2)
時間 (秒)
3方向の加速度成分のうち,上下加速度は,主に路面の凹凸や車両の振動特性に起因し,上図のように短い周期の振動として作用します. 通常,傷病者は仰向けの状態で搬送されるため,この振動は背面から体全体に伝達し,普段シートに座ったときに受ける振動よりもはるかに不快に感じられます.
また,特に大きな上下加速度は衝撃作用が大きいので,血管破裂を引き起こす要因ともなり非常に危険です.そこで,この上下加速度による影響を軽減するために,これまでに振動吸収率の高い防振マットや車体とストレッチャの間に置く防振装置が開発され,実装されてきました.
一方,前後と左右方向の加速度は,運転操作や道路の傾斜に起因し,上図のように比較的長い時間(数秒ないし10数秒間)にわたり一定方向に作用します.
例えば,発進停止時や坂道を走行していると前後方向の加速度を受けます. また,カーブ走行時や交差点右左折時には左右方向の加速度を受けます. 急ブレーキや急ハンドル操作時,急坂を走行しているときほど大きな加速度を受けます.
作用時間が長いため,慣性による効果が大きく,上下加速度とは異なった影響を与えます. これらの加速度は,大きなときで2m/s
2程度となります. この2m/s
2という大きさの加速度の感覚ですが,イメージできますでしょうか. 体をまっすぐに仰向けに寝た状態で,足に対して頭を30cm程度下げたときに感じる前後方向の力の感覚(顔面の鬱血感)が,2m/s
2の前後加速度に相当しています. また,体をまっすぐにして,頭足線まわりに10度程度体を回転させたときに受ける左右方向の力の感覚(体が横滑りする感覚)が2m/s
2の左右加速度に相当しています.実際の搬送では,このような加速度が繰り返し作用するわけです.では,これらの加速度を受け続けると,どのような影響が生じるか,考えられる可能性を下に示してみます.
<前後加速度による影響>
身体の縦ずれ,ずれる感覚,血圧変動
↓
血流変動による不快感
患部からの再出血
(特に外傷や脳出血)
<左右加速度による影響>
身体の横揺れ,ストレッチャーへの身体圧迫
↓
揺れによる不快感
身体圧迫による患部の痛み
(特に骨折や脱臼の場合)
脳神経疾患専門の広南病院(仙台市)の調査では,過去3年間に同病院に救急車で運ばれた318人のくも膜下出血患者のうち,23人が搬送中に再出血を起こし,その後の経過に重大な影響を与えたことが分かっています.
一般に,救急車が減速すると,傷病者には足から頭に向かって前後加速度が作用します. この前後加速度は,体液(特に,血液)を強制的に頭方向に移動させるため,その結果,脳内動脈圧が上昇します.
よって,搬送中に起きた再出血の原因が,前後加速度であることは十分考えられます. しかし,このように加速度がもたらす危険性はあまり認知されてはいません.
その理由の一つに,重症な患者の方ほど意識レベルが低いことが多く,搬送中に受けた加速度によるストレスを覚えていないため,患者サイドからの声がフィードバックされないことが挙げられます.
前後左右方向の加速度は長周期的に作用するので,防振マットや防振装置では作動ストロークが足りず吸収しきれません. よって,急ブレーキや急ハンドル操作を避け,救急車を慎重に運転することが,これらの加速度の影響を軽減するための有効な対策法ですが,道路事情によっては,急停止や急ハンドル操作が避けられない場合があります.
また,坂道を走行する場合には,常に重力による加速度が作用し続けます. したがって,前後左右方向の加速度による影響は完全には取り去ることはできません.
そこで,このような加速度の影響を軽減し,傷病者を安全迅速に医療機関に搬送することを目的に,アクティブ制御方式のベッドの開発に取り組んできました.
3.アクティブ制御ベッド
前後左右加速度の影響を軽減するアクティブベッドとして,以下の2種類のベッドが試作されました. いずれも,振子の原理を応用した姿勢制御ベッドです.
すなわち,ベッドの角度を変えることで,傷病者にかかる加速度を重力加速度で相殺します. 実際の姿勢制御では,車内に設置した加速度センサにより,車両の前後または左右方向の加速度をリアルタイムで計測し,その大きさに応じてベッドの傾斜角または回転角を決定して,コンピュータ制御されたモータによりベッドを駆動しています.
傾斜式ベッド
(前後加速度に対応)
傷病者の首部付近を支点として,足を上下動させる傾斜式ベッド.ブレーキ時に足を下げることで,足から頭部方向にかかる前後加速度を重力加速度で相殺する.(1995年東北大旧猪岡研)
回転式ベッド
(左右加速度に対応)
傷病者を頭足線まわりに回転させる回転式ベッド.カーブ通過時や車線変更時に,傷病者の体が進路側に向くように回転させることで,左右加速度を重力加速度で相殺する.(2002年東北大旧猪岡研)
上の2つのベッドは,前後加速度または左右加速度のどちらかにしか対応できない1自由度型のベッドです. 理想的には両方向の加速度に同時に対処できるベッドが望まれます.
そこで,傾斜も回転もできる2自由度型のアクティブベッドを製作しました. 基本的には,上の2つのベッドを合体させたようなものです. これにより,前後方向と左右方向の加速度による影響を同時に軽減することが可能となります.
傾斜式ベッド+回転式ベッド
||
2自由度アクティブベッド
(前後と左右の加速度に同時に対応)
(2004年製作)
救急車の車内空間を考慮して,傾斜角と回転角の許容範囲は水平状態から10度程度に制限しています. この場合,大きな加速度は完全には相殺できません.しかし,下でも述べますように,シミュレーション上では固定式ベッドに対して,前後左右加速度を1/3以下に軽減することができます.
また,上下振動を吸収するような防振機能もついています. このベッド,目を開けたままで寝ると,周りは動いているのに,自分には揺れている実感がないという不思議な感覚を受けます.
ただ,ベッドの構造上,路面と平行な面内の回転運動までは制御できないので,交差点を曲がるときには,体が水平に回る感覚が若干あります.この2自由度タイプのベッドは,2004年11月に開催された第38回東京モーターショー2004で体験試乗ブースで一般公開されました.
4.検証1(路上実験)
さて,アクティブベッドの効果はどの程度なのか,路上でのテスト走行による結果を示し,検証してみます.
加速度軽減効果と乗り心地改善効果
下図は,体重60kgの被験者に対して,2自由度型アクティブベッドを使用したときの実験結果です. 黒線が車両の加速度,赤線が被験者にかかった加速度を表します.
前後方向の図でプラスの加速度が,足から頭方向に作用して脳圧上昇をもたらす加速度を表し,左右方向の図でプラスの加速度が,救急車が右に進路を変えるときに生じる加速度を表します.
平均すると,足頭方向の加速度は約1/8,左右方向の加速度は約1/3に軽減されています.
前後方向の加速度(m/s2)
時間 (秒)
左右方向の加速度(m/s2)
時間 (秒)
ところで,頭から足方向の(マイナス)前後加速度が軽減されていません. これは,頭足方向の加速度が発生しても,ベッドを駆動しないようにしているからです.
このような駆動方式をとっている理由は二つあります. 一つは,頭足方向の加速度は脳圧下降を引き起こすが,脳圧下降は脳圧上昇に比べて致命的なダメージにつながりにくいと考えられているため,これに対する措置は取らなくてもよいであろうという理由.
もうひとつは,一方向の加速度だけに対処することで,ベッドの機構を簡単にすることができるという理由です.
次に,上のテスト走行時とほぼ同等な走行条件の下で,健常者を対象に,走行中に感じる不快感を評価しました. 不快感は,加速度に起因する直接的な身体的ストレス(血圧変動や体の揺れ)がもたらす2次的ストレスと解釈できます.
よって,不快感を評価することにで,ある程度,ストレス度の総合評価ができます. 今回は,不快感を1秒おきに5段階で評価しました.不快感の程度は0から4までの整数で表し,この整数を不快指数と呼ぶことにします.
不快指数が大きいほど,不快であることを意味します.実験では,1秒おきに電子音を鳴らして,それに合わせて,被験者が1~4のボタンを押すことで不快指数を記録しました.
不快感の程度 |
不快指数 |
極めて不快である |
4 |
かなり不快である |
3 |
不快である |
2 |
やや不快である |
1 |
不快感なし |
0 |
下図は,固定式ベッドと2自由度型アクティブベッドを使用したときの被験者(同一人物)が評価した不快指数の時間履歴を表します. 同じコースを同じような加速度で走行したときの結果です.この結果から,アクティブベッドを使用することで,不快感が軽減できることがよくわかります.
しかし,これは,あくまでも健常者に対する主観評価です. 傷病者の場合には,症状によっては,不快感の感じ方がより厳しくなるかもしれませんし,逆に鈍くなるかもしれません.
ですが,大方は不快感が軽減されるものと思われます.
固定式ベッド使用時の不快指数
時間 (秒)
アクティブベッド使用時の不快指数
時間 (秒)
血圧変動抑制効果
アクティブベッドの一番の導入目的は,減速時や坂道走行時に生じる脳圧上昇を防止することです. 足頭方向の加速度が良好に軽減されることから,頭部に流入する血液量も減少し,その結果,脳圧上昇も抑えられることは容易に想像できます.
では,どの程度の圧上昇抑制効果があるか,1自由度型の傾斜ベッド(最大傾斜角15度)に対して得たデータに基づき検証してみます. ただし,脳圧を計測することは困難なため,それと相関があると思われる指先血圧の計測結果を示します.指先を頭の横に置いて測定したものです
(データ自体は文献[4]のものです.弘前大の佐川先生から頂きました).
下の2つの図は,約2kmの直線舗装道路上を時速80km/hで1分間直進走行している状態から急ブレーキをかけ,約10秒間で停止したときの指先の非観血血圧の平均血圧の変化を示した図です.
時速80km/hは,緊急車両が一般道で出せる最高速度となります. 青線が固定式ベッド使用時の結果,赤線がアクティブベッド使用時の結果です. この実験で被験者が受ける加速度は,通常では生じない極めて大きな3.5m/s
2程度の前後加速度ですが,事故を避けるためやむを得ず急ブレーキをかけたときに生じ得る加速度でもあります. 固定式ベッドの場合には,平均血圧で20~30%程度の上昇することがわかりました.
そのため例えば,脳血管や心臓血管に疾患のある患者に対しては,患部からの出血を引き起こしかねないため危険と言えます. 一方,アクティブベッドを使用しますと,平均血圧の上昇が1/3に軽減できることがわかり,症状の悪化や再発を防げるものと期待されます.
平均血圧変動(mmHg)
時間 (秒)
5.検証2(シミュレーション)
前後左右方向の加速度は,運転の仕方(アクセル・ブレーキ・ハンドル操作)に依存しますので,アクティブベッドの効果も救急車を運転する隊員ごとに異なります.
よって,上記の実験で確認した効果が,実際の救急搬送状況下で保証されるとは限りません. そこで今度は,救急車の走行データを用いてコンピュータシミュレーションを行い,2自由度アクティブベッドによる血圧変動(脳内動脈圧変動)と背面荷重変動の抑制効果を推定してみます.背面荷重とは,左右加速度を受けたときに左または右の肩甲骨の直下にかかる仮想的な圧迫荷重のことです.高速でカーブを走行すると,背面の左右どちらか一方の側にググッと分布荷重がかかりますが,この分布荷重を肩甲骨にかかかる集中荷重に置き換えたものです.背面荷重変動とは,安静水平時の背面荷重を基準値としたときの,そこからの変動量を指します(
文献[12]).背面荷重自体は,体格に依存します.ここでは,傷病者が身長170cm,体重62kg,BMI21.5(普通体重)と想定しました.
使用するデータは,高規格救急車が緊急走行していた時のデータです.左図が血圧変動に関するグラフ,右図が背面荷重変動に関するグラフを表します.赤線が固定式ベッドに対する結果(測定データそのもの),青線がアクティブベッドに対する結果です.これらは,1搬送分のシミュレーション結果です.血圧上昇と背面圧迫変動が良好に抑えられていることがわかります.
血圧変動(単位:mmHg)
時間 (分)
背面荷重変動(単位:N)
時間 (分)
上のデータを,走行経路に沿って電子地図上にマッピングしたものが下の図になります.赤色の〇印ほど変動が大きく,水色の〇印は変動が小さいことを意味します.
左列の図から,アクティブベッドを利用すれば,減速時に起きやすい大きな血圧上昇(地図上の
●)が回避できることがわかり,脳卒中患者に対しては安全性の向上が期待できます. 右列の図からは,カーブ通過時や交差点右左折時に起きやすい大きな背面圧迫(地図上の
●)が回避できることがわかります.骨折患者に対しては,圧迫変動による痛みが軽減されるものと思われます.
血圧変動
(固定式ベッド)
(アクティブベッド)
凡例(単位:mmHg)
●(-10~-5),●(-5~5),●(5~10),●(10~)
背面荷重変動
(固定式ベッド)
(アクティブベッド)
凡例(単位:N)
●(0~10),●(10~20),●(20~30),●(30~)
下の図は,90搬送分(約730分)の救急車の走行データに対して,コンピュータシミュレーションで計算した血圧変動と背面荷重変動のヒストグラムを表します.最頻値が1となるように正規化して表示しています.赤が固定式ベッドに対する分布,青がアクティブベッドに対する分布を表します.
分布が中央の0付近に集中しているほど,変動が小さいことを意味します.アクティブベッドを使用することで,過大な血圧上昇と背面荷重変動が回避できることがわかります.背面荷重に関しては,ほぼ分布が左右均等になることもわかります.これは,右折と左折の回数に関係なく,荷重が同じ頻度でかかることを意味します.
血圧変動の分布
(■:制御OFF,■:制御ON)
血圧変動 (mmHg)
背面荷重変動の分布
(■:制御OFF,■:制御ON)
背面荷重変動 (N)
ところで,傷病者の足頭方向にかかる加速度の分布は,上の血圧変動のヒストグラムと近い分布になります.左右加速度は,上の背面荷重変動のヒストグラムと近くなります.これは,血圧も背面荷重も,大雑把に見れば加速度に比例して変動するからです.
以上の結果を見れば,アクティブベッドの効果は極めて大です. 自分が脳内出血や脊髄を損傷して搬送される場合を考えれば,その恩恵が計り知れないものであることは容易に想像できると思います.
6.その他
専門が制御工学なので,アクティブベッドの制御の話を簡単に説明します. アクティブベッドの制御系は,ブロック線図で書きますと基本的には下のようになります.
ベッドの姿勢角を目標値に合わせるサーボ系として構成されています.
加速度 |
: |
加速度センサから送られてくる車両の加速度情報 |
目標値 |
: |
ベッドの目標姿勢角(傾斜角と回転角) |
入力 |
: |
ベッドを動かすための駆動装置への入力 |
ベッド姿勢角 |
: |
実際のベッドの姿勢角(傾斜角と回転角) |
外乱 |
: |
傷病者が動くことにより生じる駆動装置への負荷 |
ベッド姿勢角発生器 |
: |
車両の加速度情報から,リアルタイムでベッドの目標姿勢角(傾斜と回転角)を計算する部分 |
コントローラ |
: |
目標姿勢角どおりにベッドが動くように,駆動装置への入力を決める部分 |
制御対象 |
: |
ベッド本体の機械部分と患者を合わせた部分 |
制御系設計といえば,主にコントローラ内で動くプログラム(制御アルゴリズム)を作成することを指します. この場合の制御アルゴリズムですが,制御対象の数学モデルを利用してシミュレーションを行い,
実際の搬送状況下で追従誤差(目標姿勢角と実際の姿勢角との差)が1度以下になるように決定しています. 急ブレーキや急ハンドル操作をしなければ,目標姿勢角は主に1Hz以下で変化します.
この1度という許容誤差を確保するのは以外と大変です. 最大の障害は,外乱やモデル中のパラメータ変動です. いつ発生するともわからず,また瞬間的に生じる外乱に対処しなくてはなりません.
また,赤ちゃんから体重180kgの人を搬送することを想定しているので,パラメータは大幅に変化します. このような外乱やパラメータ変動を補償するロバスト制御の概念が必要となります.
そのほか,駆動装置が消費するエネルギができるだけ少なくてすむようにすることも重要となります.
アクティブベッドを使用すると加速度おおよそ1/3程度に軽減できますが,この軽減率がもっと上げるように制御することは可能です. しかし,軽減率を上げすぎると,速度が少し変化しただけでもベッドが動くようになります.
ベッドと傷病者は完全には一体化していないので,ベッドの動きが早すぎると足が浮いてしまいます. また,不快感は加速度以外にもジャーク(加速度の1階時間微分したもの)にも依存するので,
細かく動きすぎるとかえって乗り心地が悪化してしまいます. 運転手の方もこれでは大変です. そこで,乗り心地なども考慮して,多少の速度変化に対してはベッドが動かないように制御アルゴリズムを作っています.
その結果,加速度の減少率が1/3程度になっています.しかし,乗り心地などのストレスの受け方は人によって異なるため,実際の所,最適な制御アルゴリズムを決定するのはなかなか難しいものがあります.
逆に,ベッドを動かさずに固定しておいた方がいいという場合もあるかもしれません.検討課題は,まだまだありそうです.
最近の高規格救急車には,減速時にストレッチャーが前にスライドするように設計された防振架台が搭載されているものがあります.これにより,減速時に起きる脳圧上昇が回避できるかもしれません.
実際に血圧を測定したことがないので,効果の有無はわかりませんが,このような新しい機材の導入や改良が進み,一人でも多くの命が救われることを願うばかりです.