1.はじめに
安心・安全・迅速な救急搬送サービスを提供する方策の一つとして,傷病者に過度な負担をかけない高度な運転技術の習得を支援するシステムを開発してきました.ここでは,その研究背景とシステムの概要を説明します.
2.背景
救急隊の用務は,傷病者に必要な応急処置を施しながら,安全かつ迅速に病院に搬送することです.一般に救急隊は,救急隊長(1名),救急隊員(1名または2名),機関員(1名)で構成され,このうち救急隊員が応急処置に当たり,機関員が運転業務に当たります.救急隊長は言うまでもなく,用務を管理統括する立場にあり,運行中の交通安全の確保,医師への傷病者の容態の伝達,必要に応じて傷病者への手当にも当たります.各隊員が自身の役割を担い,また時として互いの役割を補完することによって,用務が遂行されます.しかし,どんなに個々の隊員の業務遂行能力が高く,連係プレーが完璧であっても,
一般自動車と同じ流れで走行していては,迅速な搬送は到底できません.そのため,救急車には道路を優先的に走行できるように,法令で様々な特例が認められています
(
道路交通法第39条第1項および第2項,第41条第1項,第71条の3,第72条第4項,第75条の9,道路交通法施行令第12条第3項,第27条第2項など).代表的な例としては,以下のものがあります.
- 最高速度は,高速道路で100km/h,一般道では80km/h
- 赤信号での交差点への進入
- 対向車線での走行(やむを得ない場合に限る)
- 進行方向の指示に従わない走行
これらの特例が認められるのは,救急車が赤色灯を点灯しかつサイレンを吹鳴している状態に限ります.法律的には,この時,緊急自動車として扱われます(
道路交通法第39条第1項など).赤色灯を点灯していない,あるいはサイレンを鳴らしていないときは,一般自動車と見なされます.病院から消防署に戻るときが,この状態です.
救急車を優先的に通行させるために,一般自動車には避譲義務が課されています(
道路交通法第40条第1項及び第2項).しかし,これで救急車の交通安全性が保証される訳ではないため,機関員には徹底した安全確認や危険予知運転といったより一層の安全運転が求められます.緊急出場中の交通安全を徹底させるために,道路交通法では,自動車の使用者(自治体)に対して,安全運転管理者を選任させ,その安全運転管理者に対しては,機関員等への交通安全教育の実施義務を課しています(
道路交通法第74条の3第2項).例えば,自治体や消防機関ごとに,敷地内での基礎走行訓練,管轄内での応用走行訓練,フィギア訓練,急制動訓練などを行っているようです.
救急車による搬送では,迅速性に加えて,安全性も同時に求めれられます.この安全性という言葉には,2つに意味が込められています.一つは,上で述べた交通安全性です.もう一つは,
走行中に受ける振動や慣性力などの影響で傷病者の容態を悪化させることなく,安定した状態で病院まで搬送するといった意味での安全性(傷病者安全,容態悪化予防)です. 文献5では,救急車運転上の基本の一つとして,「傷病者の症状を考慮し,急加速,急ハンドル,急ブレーキを避けて,振動等を与えないように留意する」と述べられており,これが該当します.交通安全の確保および安全運行の管理は,法律で義務づけられていることから,安全運転のための教育および訓練が業務の一部として組み込まれています.
一方,傷病者安全に関しては,どのように取り組んでいるかは,消防署ごとに差があるかもしれません.救急隊員から聞いた話では,隊長によるOJT方式でブレーキ・ハンドル操作の訓練が行われているようです.交通事故を避けるためのハードな操作ではなく,傷病者に負担をかけないためのマイルドな操作の訓練です.また,機関員自身がストレッチャーに乗り,ブレーキ時の脳圧上昇を直に体験することで,急ブレーキの危険性を認識するといった訓練も行われているようです.
しかし,運転操作の適正さの判断は,経験や主観に頼っているのが現状でしょう.
3.DTAS for ambulances
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運転訓練の区分 |
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訓練サイクル |
DTAS(Drive Training Assistance System)for ambulances とは,法律で義務づけられている交通安全訓練と平行して行われる,
傷病者安全運転訓練のための支援機器です(右の上図).従来の隊長によるOJTや模擬搬送体験と併用可能なツールとして開発しました. 一般的な運転訓練は,右の下図のように運転,評価,改善を繰り返すサイクルで行われますが,DTASは評価のプロセスで利用されます.
経験則や主観的に基づいて行われていた従来の運転技能の評価を,以下の3つの観点から客観的に行います.
- 車両の加速減速運動に由来する血圧変動
- 交差点右左折やカーブ通過時に起こる背面荷重変動
- 振動による不快感(振動乗り心地)
いずれも慣性力や振動に起因する現象です.これらの大小は,加速度(慣性加速度や振動加速度)を用いて数値的に表せますが,加速度で示されても良いのか悪いのかイメージしにくいでしょう.この欠点を解消するために,DTASでは加速度そのもので評価することはせず,医師や消防関係者が理解しやすいように,加速度より血圧,荷重,不快度を推定して評価する点に特徴があります.隊長によるOJTと併用すれば,運転操作の改善指示を裏付ける支援ツールとして活用できます.また,救急車を運転するのは,救急隊員だけとは限りません.出場要請が集中して,救急機関員が不在の時は,消防機関員(普段は消防車を運転している隊員)が代役として救急車を運転することもあります.
消防車は,交通安全を確保した上で,とにかく早く現場に到着することが求められます.傷病者安全という概念がないため,救急車の運転とは全く異なると言っても過言でないでしょう.消防機関員に対する訓練では,口頭による改善指示に加えて,運転結果を数値的に示してあげれば,どの程度の改善が必要かイメージが付きやすく,訓練効率が上がるかもしれません.何度も改善指示を出すのに気が引ける場合にも,DTASは好適かもしれません.また,消防救急だけでなく,民間救急車,ドクターカー,福祉車の運転訓練支援機器としても活用できます.
DTASで利用する上記1~3の指標について説明します.
1の血圧変動は,アクセルとブレーキ操作を評価するための指標です.人の血液は心臓を起点として足頭方向に流れているため,頭を進行方向に向けて仰臥位で搬送すると,加減速で生じる慣性力の作用方向と傷病者の血流方向が一致します.
そのため,アクセルやブレーキが急すぎると,血流が乱れ,血圧が変動します. 救急車内で脳動脈瘤再破裂を起こしたケースでは,傷病者の多くが搬送開始前にすでに著しい高血圧(収縮期血圧が150~280
mmHg)を示していたことが報告されています(文献6).脳血管障害では,血管破裂が起きやすい状態にあることから,血圧変動を抑えるようなアクセル・ブレーキ操作の訓練は非常に重要となります.
2の背面荷重変動は,カーブ通過時や交差点右左折時の速度およびハンドル操作を評価するための指標です.カーブ走行中,仰向けの状態で遠心力を受けると,後背面の遠心側がストレッチャーのマットに押しつけられたり,腕がサイドバーに押しつけられます.筋骨格を損傷している状況で,このような圧迫を受けると痛みが増長します.不要な痛みを与えないためにも,カーブ通過時の速度調整やハンドルの取り回し訓練は重要となります.
3の振動乗り心地は,荒れた路面での走行方法や凹凸箇所の回避法を訓練するための評価指標です.振動や衝撃は不快感に直結します.仰向けで搬送されることに慣れていないため,背中全体にかかる振動は,健常者であっても不快に感じます. 道路の段差や窪みを通過する際に起きるドスンという衝撃は,血管破裂などを引き起こしかねないため,大変危険です. 骨折や脱臼の場合には,激痛の要因にもなります.一般に,振動や衝撃の大きさは,同じ場所を通過する場合でも,速度や乗車人数によって変化します.これは,車両のサスペンションや防振台の振動吸収特性が振動周波数によって変わるためです.振動不快感を軽減するためにも,振動が車速と乗車人数とどう関係するのか,その対応関係を把握することが重要となります.
DTASでは,上記1~3の指標を傷病者本人から直接得るのではなく,慣性加速度や振動加速度をセンサで計測した後,それらを数理モデルに代入して1~3を推定します.それに基づいて,運転操作を評価します.推定値を用いるため,実際の傷病者の方の1~3とは厳密には異なりますが,傷病者が乗っていなくても評価が可能です.例えば,通勤途中でも使えます.
いわば,救急隊長のディジタル版です.このような機能をアップル社のiPhoneに組み込んで実現しました.DTASを簡単に紹介したパンフレット(A4版PDF)を用意しました.
PDF資料(681KB)
4.DTASの使用方法
DTASの使い方を説明します.次の3つの基本機能が組み込まれています.各機能を説明します.
- 運転訓練
- 走行データ記録
- 運転確認
運転訓練
端末(iPhone)に内蔵されている加速度センサから車両の3軸加速度を測定し,それを数理モデルに代入することで,血圧変動,背面荷重,振動乗り心地を推定します.
このうち,血圧変動と背面荷重の推定値が事前に設定した閾値を超えると,電子音を鳴らして,運転手に知らせます. これにより,運転手は自身の運転操作と被搬送者の血圧変動や背面荷重との関係が把握できるので,負担の少ない運転へと改善されていきます.
人間の学習能力を利用した操作の改善法です. したがって,電子音を鳴らす閾値が訓練の目標となります. この閾値の規定値として,予め消防署で妥当性を確認した値を与えていますが,実際には,訓練で想定する傷病者の容態や道路事情に合わせて,設定することになるでしょう.
閾値の設定は,設定画面で簡単に行えます. 各々の推定値は,端末画面にレベルメータとフレアで視覚的に表示されますが,画面を見続けて前方不注意とならないように,非表示することもできます.
また,急ブレーキや急ハンドルといった急操作のみを検出して評価する初心者訓練モードもあります. 端末の設置角の有効範囲は,-90度~180度(垂直置きが0度,水平置きが90度)です.
使用前に設定画面で設置角を計算させます. 加速度が計測されると,その角度に応じて加速度が自動的に補正されます.
DTASの構成
メイン画面
走行データ記録
経過時間,位置(緯度,経度),速度,血圧変動,背面荷重,振動乗り心地を1秒間隔で記録できます. より詳細な走行データ解析のために,経過時間,3軸加速度(前後,左右,上下),血圧変動,背面荷重変動,振動乗り心地は,0.01秒間隔でも記録できます.
これらのデータは,CSV形式のテキストファイルとして端末に保存されます. また,端末の背面カメラで車両の前方映像も記録でき,ドライブレコーダとしても機能します.
これらのデータ記録のON/OFFは,設定画面で選択できます. Lightningケーブルで端末とMacやWindows PCと接続すれば,記録データをコピーできます.
Wi-Fi経由でiCloud(Appleが提供するクラウドストレージ)にも,直接,アップロードできます. データが不要になった場合には,端末から削除できます.
データ保存
前方映像
記録データの操作
iCloudに保存
運転確認
記録されたデータは,端末画面の地図上に時間とともに経路に沿って表示できます. 血圧変動,背面荷重,振動乗り心地,速度が表示可能で,1秒間隔で計測されたデータを円で表示します.
変動の大きさは,強度に応じて色分けされます. 前方映像を記録していれば,映像と同期して1~8倍速で再生することもできます. 血圧変動と背面荷重のレベルメータも同時に再生されます.
走行経路の全体表示
前方映像の再生
前方映像と同時再生
航空画面への切替
PCやタブレットでデータを確認できる走行確認アプリ(Viewer)も同時に提供します. このアプリでは,Googleマップに上記と同じ4種類のデータを表示します.
Javascriptベースのアプリなので,画面表示の処理はすべてPCやタブレット内で行われます. サーバへの再アップロードが不要なので,セキュリティー上も安心です.
このアプリには,特定の条件にマッチしたデータを抽出する機能もあります. 条件はプルダウンメニューから選び,複数選択した場合はAND条件となります.
抽出したデータは,内蔵ストレージに保存したり,外部ファイルとしてCSV形式で出力することもできます. 同一条件で長期的に抽出し続け,その都度,内蔵ストレージに追加保存すれば,恒常的に過大な血圧上昇が起きやすい場所や乗り心地が悪い場所などを特定することができます.
また,ストリートビューの利用できます. 表示画像が古い場合もありますが,乗り心地が悪い場所が見つかった場合,路面状況を確認することができます.
現場に行かなくても,ある程度は確認できるので便利です. 条件抽出やストリートビューは,運行管理や業務管理にも活用できます.
経路の表示(地図)
経路の表示(写真)
条件抽出結果
ストリートビュー
5.数理モデル
DTASでは3つの数理モデルから,傷病者への負荷を推定しています. これらのモデルについて簡単に説明します.
血圧変動モデル(文献7,8,9)
血圧の代表値として,最高血圧,最低血圧,平均血圧(MBP)がよく用いられますが,DTASでは平均血圧の変動を評価します. 特に,下の左図のように脳内動脈圧の変動と正の相関があると考えられている左手指尖部のMBPの変動を数理モデルから推定します.
このMBPの変動要因は,以下のように何種類かに分けることができます.
- 力学的作用(加減速に伴う慣性力,道路勾配に伴う重力)による変動
- 自律神経系に由来する周期的な変動
- 動脈圧受容器反射による血圧調節による変動
- 前庭器由来の反射による変動
アクセル・ブレーキ操作と同期的に発生するのが1の変動です. その変動を抑えるように働くのが,3の圧受容器反射です. DTASでは,これら1と3に由来する変動成分の合算値を数理モデルから推定します.
モデルは,20代前半の健常男性20名から得た加速度と血圧データに基づいて,独自に構築したものです. 傷病者が20代以外であれば,このモデルでは再現できない可能性があります.
20代以外は未検証です.
血圧変動の推定部位
血圧測定実験の様子
背面荷重モデル(文献10)
背面荷重とは,正確には,傷病者が遠心力を受けたときに,背面に生じる分布荷重を左右の肩甲骨の直下にかかる集中荷重として等価的に置き換えたときの,
ストレッチャーマットに対して垂直な方向の荷重成分を指します(下の左図の緑の荷重). 実際の集中荷重は,水平方向成分も加味されるため,これよりも大きくなります.
よって,DTASではやや過小評価してます. 一般に,背面荷重は体重や体格によって異なるため,これを推定するにあたり, まず,20代前半の健常かつ普通体重(18.5≦BMI<25)の被験者19名に対して,背面荷重変動(水平安静時からの背面荷重の増分)のデータを得ました.
覚醒度の低い傷病者の搬送を想定し,測定時は全身の力を抜いてもらいました. 被験者ごとに数理モデルを構築したところ,遠心加速度の平滑化値(時定数0.4秒の一時遅れフィルタで平滑化した遠心加速度)にほぼ比例する結果となりました.
比例係数は,体格や体重によって異なります. この点を考慮し,DTASでは,遠心加速度の平滑化値を体格や体重に依存しないという意味で正規化背面荷重変動と呼び,これに基づいて評価を行っています.
メイン画面のレベルメータも,これを表示しています. 走行確認アプリのViewerでは,身長169.5cm,体重62.0kgのケースに当てはめて,比例係数をかけて背面荷重変動を地図上に表示します.
なお,普通体重でない場合には,背面荷重は遠心加速度の平滑化値には比例しません. 別なモデルが必要となります.
背面荷重の推定箇所
背面荷重の測定実験の様子
振動乗り心地モデル(文献11)
振動乗り心地は,国際規格ISO2631-1:1997 Mechanical vibration and shock, Ealuation
of human exposure to whole-body vibrationに規定されている仰臥位用モデルを用いて評価しています. このモデルは,そもそも健常者に適用するものなので,傷病者に適用するのは正しい方法とは言いがたいかもしれません.
しかし,現状ではこれ以外に存在しないため,これで代用しています. このモデルでは,センサで計測された3軸加速度をそれぞれ周波数成分ごとに分け,不快感の抱き方に応じて重み付けして,加速度を調整します.
この重みは,IIR型の線形時不変フィルタにあたり,伝達関数の形で与えられています. その実効値を周波数補正加速度実効値と呼んでいます. DTASでは,実効値の計算時間幅を1秒に設定し,この加速度実効値に基づいて,振動乗り心地を評価しています.
乗り心地は,6段階でカテゴリー分けされています(下の表). 表の左列のように,ISO2631-1では周波数補正加速度実効値が2つのカテゴリーにまたがっているので,DTASでは中央の列のようにカテゴリーを分けています.
DTASのメイン画面では,この実効値の大きさに応じて,黄色 → 燈色 → 赤色 → 濃赤色と変化するフレアとして表示します.
周波数補正加速度実効値
(ISO2631-1)
[m/s2] |
周波数補正加速度実効値
(DTAS)
[m/s2] |
不快レベル |
~0.315 |
~0.315 |
不快でない |
0.315~0.63 |
0.315~0.63 |
少し不快 |
0.5~1.0 |
0.63~1.0 |
やや不快 |
0.8~1.6 |
1.0~1.6 |
不快である |
1.25~2.5 |
1.6~2.5 |
かなり不快 |
2.0~ |
2.5~ |
極めて不快 |